「 地名 」 一覧
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金城橋と識名平(カナグスクバシとシチナンダ)
金城橋は、琉球王国時代、首里・識名台地の間を流れる金城川に架けられた橋である。 橋の創建年は不明。1677年に木橋から石橋に建て替えられた(「金城橋碑文」建立)が、1809年の洪水により損壊。翌年元 …
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ガジャンビラ
那覇垣花から小禄安次嶺にいたる坂道の名称。 付近―帯を指す地名にもなっている。 琉球王国時代、中国からの使節「冊封使」は、この地を指して「儀間山」・「筆架山」と記しているが、1877年刊行の『沖縄志 …
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雪の崎跡(ユーチヌサチアト)
那覇市の北西部にあった岬の名称。 中国からの冊封使節の記録には「雪崎山」と見える(李鼎元「使琉球記」)。 「雪の崎」は、若狭町の中央北側に広がっていた「上の毛」と呼ばれる高さ20m程の岩礁台地の突端 …
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内兼久山跡(ウチガネクヤマアト)
この地にあった小丘跡。 寄上森ともいう。 内兼久山は、松尾山(現松山公園一帯)から南西に続く丘陵の一部で、久米村の風水に係る丘であった。名称の由来は、砂地を表す「カニク」に通じ、「内浜の山」といわれ …
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赤畑(アカバタキー)
かつて漫湖(まんこ)に突き出ていた小丘の名称。 この付近は赤畑原といい、真和志村字壺川(現那覇市壺川)の小字地名であった。 丘の上には松が生えており、奥武山・ガーナー森とともに漫湖の景観に趣を与えて …
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旧一日橋跡(キュウイチニチバシアト)
国場川に架けられた橋跡。 琉球王国時代は、この一帯の川は板敷川と呼ばれていたため、橋も板敷橋と呼ばれた。 橋は、南風原間切(現南風原町)や東風平間切(現八重瀬町)と首里を結ぶ重要な橋で、古くから木橋 …
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真嘉比村(マカビムラ)
琉球王国時代、現在の真嘉比・古島地域は、真和志間切真嘉比村と呼ばれ、小字真嘉比原バル(現真嘉比自治会館周辺一帯)に集落が形成されていました。 1879年の琉球処分(沖縄県設置)の後、真和志間切真嘉比 …
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ナナユヒービラ
安謝から天久に至る坂の名称。 名前は、近接する「七与平利田」と称する田んぼに由来する。 かつて、広い田畑を有する者が天久村に居り、身売りした7人の主人として、彼らにその田畑を耕作させていた。ある時、 …
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てんぷら坂
壺屋から牧志に至る坂の通称。 この坂に天ぷら屋が建ち並び、その名が付いた。 かつてこの一帯は、「一松尾」・「二松尾」と呼ばれる丘陵で、丘には墓が点在し、前の坂道は「ガマヌ下」と呼ばれた。 1944年 …
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開南(カイナン)
この地域一帯の通称地名。 地名の由来は付近に建てられた学校名による。 かつて、この一帯は真和志間切与儀村の村外れで、墓が点在する場所であった。 大正期、付近に沖縄県立第二中学校(現那覇高等学校)、沖 …