個人観光ガイド

美術村跡(ビジュツムラアト)

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沖縄戦の後、画家達が多く居住した地区跡。

 首里儀保町のニシムイに造られたため、「ニシムイ美術村」、単に「美術村」ともいう。
 「ニシムイ」は、首里赤平町の「虎頭山」から続く丘陵の一部で、特に儀保大道(現県道241号線)から西側の丘陵をいう。首里城の北(方音で「ニシ」という)に位置することから、「ニシムイ」と呼ばれ、「西森」の字が当てられた。
 かつて、西森一帯は松が生い茂る景勝地で、「西森小松」と謳われた首里八景の一つであった。南麗は「宝口」と呼ばれ、王家陵墓の一つ「宝口玉陵」や儀保川(井戸)があった。東側には、西森御嶽があり、1657年に馬氏国頭王子正則が拝殿を造り、弁財天を勧請したという(『琉球国由来記』)。
 1945年(昭和20)の沖縄戦で、西森の松林は、日本軍陣地壕構築のため伐り倒され、米軍の首里攻撃で焼失した。米軍は、軍用道路造成のため西森などから石粉(コーラル)を採掘し、西森の北側は、米軍余剰物資の捨て場(地元では「チリ捨て場」といった)になったが、資材は首里市が管理し、復興の一助になったという。
 沖縄戦終結後の1945年8月20日、米軍が住民の代表として組織された沖縄諮詢会(後の沖縄民政府)には、文化部が置かれ、ウィラード・ハンナ海軍少佐等の指導の下、芸能家や画家が集められ、収容所への慰問公演や米軍人の注文で肖像画やクリスマス・カードの製作等に当たらせた。これらの芸術家が集められた石川市東恩納(現うるま市石川東恩納)には、沖縄陳列館や東恩納美術村が造られた。
 1947年(昭和22)7月、東恩納に集められた画家達は、沖縄美術家協会を結成し、さらに、米軍政府及び沖縄民政府の知念半島への移動に際し、名渡山愛順等は、古都首里での活動を希望し、米軍の許可・援助により、西森での美術村建設が実現した。建設にあたっては、首里復興の陣頭指揮を執った首里建設先発隊々長仲吉良光による、西森一帯の文化村構想があたといわれ、首里市が土地を提供したという。
 1948年(昭和23)4月から12月にかけ、アトリエ兼住宅と研究所・陳列場を兼ねた大型コンセット3棟が完成し、屋部憲・名渡山愛順・大城皓也・金城安太郎・具志堅以徳・山元恵一・玉那覇正吉・安谷屋正義の8人とその家族が移住した。安次嶺金正など多くの画家も、美術村に出入りし、美術議論を戦わせたという。週末になると車で乗り付ける米軍人の要求で、美術村の画家は、肖像画や注文に応じた絵を描いた。美術村では、グループ展が開催されるなど創作活動も盛んで、戦後の美術活動復興の原点ともなった。
 1972年(昭和47年)、若夏国体開催(1973年5月)に合わせ、西森の南側丘陵が10数mも削り取られる環状2号線(現県道82号線)の道路工事が行われ、宝口玉陵は消失し、道路の両側は、コンクリート製の擁壁で覆われている。
 現在、西森一帯は住宅地となり、美術村という画家達の理想郷は、その面影を残していない。

以上、現地の説明版より

所在地:那覇市首里儀保町4丁目地内

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