「 歴史 」 一覧
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小禄間切番所跡(オロクマギリバンジョアト)
琉球王国時代から、1907年(明治40)にかけての行政単位である小禄間切の行政を管轄した番所(役所)跡。 1673年、真和志間切の小禄・金城・儀間村、豊見城間切の大嶺・当間・安次嶺・赤嶺・宇栄原・高 …
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識名園周辺の史跡・旧跡
識名園の位置する那覇市真地地区は、首里台地に対峙する識名台地の東寄りに位置し、かつては真和志切識名村の一部であった。 識名村の村域は、琉球王国時代、識名台地のほぼ全域を占めていたが、1700年代以降 …
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真和志間切番所跡(マワシマギリバンジョアト)
琉球王国時代から1907年(明治40)にかけての行政単位である真和志間切の行政を管轄した番所(役所)跡。 南風原・西原間切とともに首里王府の直轄領であった真和志間切は、当初那覇なども含む広大な間切で …
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沖縄県立農事試験場跡(オキナワケンリツノウジシケンジョウアト)
沖縄県の気候に適した作物の栽培・試験・研究等を行った農事施設跡。 農事試験場は、1881年(明治14)5月に、真和志間切古波蔵村内(現那覇市泉崎、沖縄県庁付近)の約7,900坪余の敷地に設置された。 …
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壺屋区役所跡(ツボヤクヤクショアト)
沖縄戦の後、最初に設置された那覇市の行政庁舎跡。 沖縄戦以前、上之蔵(現那覇市東町)にあった那覇市役所は、1944年(昭和19)の10・10空襲によって焼失した。 1945年(昭和20)11月10日 …
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辻原墓地跡(チージバルボチアト)
那覇の北西沿岸部の「辻原」にあった墓地群跡。 かつて、那覇の北の海岸は、「潮の崎」・「波上」・「雪の崎」と呼ばれる岬があり、岩礁台地が連なっていた。「潮の崎」後方の台地は、「辻原」・「辻山」などと呼 …
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辻村跡(チージムラアト)
那覇の北西部にあった花街跡。 辻村、または単に辻といい、女性が主体となって生活した場所であった。辻の女性は「ジュリ」と呼ばれ、「侏イ离」・「尾類」の字が当てられた。 琉球王国におけるジュリの起源につ …
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行脚村跡(アンニャムラアト)
ニンブチャー(念仏者)、チョンダラー(京太郎)と呼ばれた人々の居住地跡。 安仁屋村とも書く。 居住の由来は明らかではないが、18世紀初頭に作製された「首里古地図」には、首里城の北東、久場川村(現首里 …
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平等所跡(ヒラジョアト)
琉球王国時代の裁判所跡。 警察・拘置所の機能も有した。設置年は不明。敷地は88坪あったといい法廷兼事務所、拘置所等が置かれた。「平等之側」(平等所長官)、「平等方吟味役」(次官)の下に「平等所大屋子 …
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美術村跡(ビジュツムラアト)
沖縄戦の後、画家達が多く居住した地区跡。 首里儀保町のニシムイに造られたため、「ニシムイ美術村」、単に「美術村」ともいう。 「ニシムイ」は、首里赤平町の「虎頭山」から続く丘陵の一部で、特に儀保大道( …